門司みなと祭の歴史

 昭和6年9月に門司港の修築工事が完成した際、門司みなと祭の計画が商工会議所のなかで持ち上がった。翌7年に大連定期航路が、続いて天津航路が開設され、門司港は国際港としての地位を確立した。
 これを背景として、昭和9年に当時の門司商工会議所会頭(出光佐三氏)の音頭により、第1回門司みなと祭が5月1日から3日間盛大に開かれた。船に関係のある出し物が多く、町内のシャギリ、芸者衆の総出演、在郷軍人の軍旗祭、和布刈神社の玉替え行事等で、祭り気分は町を埋めつくした。
 こうして11年まで3年間続いたが、翌12年の日華事変勃発によって自粛し中止した。
 戦後、市街地はもちろん港湾施設の大部分が破壊され、人心も沈滞していたが、市民が各界に呼びかけて、当時の門司市長(中野真吾氏)のもと、和布刈神社の祭礼にあわせて、昭和22年5月13日から3日間の門司みなと祭が、市長以下の市職員が行う仮装行列を中心に復活した。
 昭和24年には、門司港航行の安全宣言が行われ、祭りは次第に町中心に変わっていき、旧国鉄・会社・工場・商店街・花柳界も繰り出した。また、当時の新聞社主催でミス門司みなと祭を選出、祭りに華を添え、日本三大みなと祭り(横浜・神戸・門司)とまで言われるほどの盛況をみせる港都門司の伝統行事となった(昭和29年から61年までは、各校区からミス約21名を選出)。
 また、平成10年の祭りには青森市のねぶた、函館市のいか踊り、下関市の平家踊り、北九州市門司区の大里電照山笠、田野浦提灯山の海峡4都市の祭りが集合し、大盛況となり人出も多く一層の賑わいをみせた。
 このように長い伝統のある門司みなと祭は、当時の門司港の隆盛を風靡し、経済界を中心として発足したものであり、後に市民参加の祭りとなり、祝賀パレード、ミスポート門司の選出、艦船公開、バナナの叩き売りなどが披露され、門司地区内外から多数の見物客であふれている。